少年王者舘の本公演、『I KILL』〈イキル〉を観に行った。
王者舘の過去の公演のVTRを何作か観たことがあるのだが、天野さんの一番伝えたい事と表現していることが、回を重ねる毎に近づいている気がする。
で、今回はタイトルからして『I KILL』〈イキル〉なわけで、核心のようななにかを強く感じさせるものになっていたと思う。
相変わらずすごい量の台詞。
しかし、肝心なことは言わないまま進んでいく。
深遠なそれを、どんな方法で伝えるか?
ひとりひとりの中のそれを、どんな方法で呼び起こすか?
ひとつのコトバが別の意味を引き起こし、違う別の意識へ。
自分だけが死んだことに気づけないでいたり、時間や場所を超えて、同じ部屋に過去の自分と老いた自分が座っていたり。
時に演劇のワクを飛び越えてしまったり。
ここにいるのが演劇をみている自分なのか、主人公なのか、それさえわからなくさせようとする。
そのための衝撃的な音響、映像、ダンス(カワユス!!)。
これらは王者舘としては王道モノである。
何年も前からやっていることなのだ。
何年も同じ表現を繰り返し、少しずつ核心に近づいていくスパイラル状の年月。一ミリずつでも、核心に近づき上昇していく。
きっと「次はもっとうまく言える」から、何度でも挑戦するのだろう。
あの空の向こうは見える、でもお前がいない。お前の名前はなんだ?
こんなになっても立ってるのはしんどいね。アイデンティティーなんてくそくらえ、みんな俺だ!
自分の中のフォルダをすべて開いてみると、以外にも不安から生まれる言葉が先に並んでる事に気づく。
肝心のことを忘れたように思い出せない永遠の中で、顔をのぞくのは、奇妙だが暖かく、人肌の温度であった。
かあさんのご飯。雨だれ、汽車の揺れ、スワロウ。
んもう、起きちゃったやない!あんまり大きな声出さんでね。
ユレ続けた果てに、そんなフト暖かく見守るような瞬間の訪れ。
それがとっても印象的だった。
かつての作品にあった、夢の中の情報を全部ひっくりかえしたみたいな強烈な不気味さ=怖さは薄れ、愉快な時間が多かった。
百人芝居にもそんな印象を受けた。
人は生の中で、その最中にそれを何度も更新する。
光を忘れたように生きていく中で、突然すべてが開くような時がある。
その時、同時に過去の何人もの自分が死ぬ。
過去のフォルダはもう使わない光の中で、日記を開くように、闇や混沌を「それもすべてほんとうのこと」としてリアルに眺める視点。
『I KILL』にはそんな視点があった。
表現とは、それを体験したその人の世界である。
天野さんの世界に反応した世界は、ひとりひとりを反映した世界なのだ。
次々押し寄せる「なんだかわからないこと」が、ひとりひとりにとっての「わかるもの」として、言葉にできないけど、わかるものとして伝わってしまう表現。やさしい。
天野さんの表現はいつも「ひとりずつの体験」なんである。
ちなみに、名古屋で公演したのはまだエンディングが完成してなかったそうな。おそるべし。
最後にどんな重みを帯びるのだろう。
この記事に対するコメント
まっったくそのとおりだ!!!