物語は喜多さんが死ぬところからはじまる。
すっごい飛躍した解説だが、まあそういう事です。
残された弥次さんは、喜多さんを探すが、
やがて自分も死んでいるという事を知る。
・・・ところがそれは夢で、二人はフトンの中にいた。
障子をあけると雨は横から降っている、庭のスイカヅラはケタケタ笑ってるわで
リアルなことは何ひとつ見い出せない。
不安。
ちっちゃい自分がおっきな自分に操られているような、寂しい、痛い、心細い感覚。
エセな街、江戸とおさらばして、リアルを求めてイセを目指す事にしたふたり。
ここまででも、「夢」を暗示させるキーワードがたくさん出てくる。
言葉の語尾と相手の頭の文字がリンクしてしまったり。
あれ?さっきもおんなじこと言わなかったっけ・・・のループ。
時間が意味をなさない恐ろしさ。
「伊勢」とは「生」の象徴だろう。
二人は生きて、息して生きることを選び、旅立ってゆく。
この旅立ちのシーンが前半のハイライト。
舞台後ろの暗幕が開くと、天井までそびえたつ無数の障子が開き、
膨大な数のプロペラ隊が一斉に現れる。
「生」を謳歌する歌。161人総出での勇気の表現は無敵である。
お伊勢とは精神世界の桃源郷を指すイメージだろう。
物語の最後に「どっからでも伊勢はめざせらあ」と喜多さんは言っていたが、
選び方次第で、どんな状態の時も人はお伊勢に行けるということだろうか。
「それ」を見つけた瞬間、その瞬間が永遠であり、「それ」を選びとる事を決めた人は最も美しい。
しかし、それは「喜びというひとつの状態にすぎない」ということを提示され、すぐに覆されるのである。
天野天街氏の表現は、生命賛歌ではなく、夢、死、自分以外のすべてを同等に捉えて「生」と呼ぶ視点がある。
生とは、あらゆる全てであり、死でもあり、夢でもあり、自分ではない誰かの夢でもあるという視点。
旅立ちのシーンで、二人が白ワクの扉の中へ入ってゆく。
そのとき無数の漢字が舞台狭しと飛び回るのだが、一見旅とはなんら関係のない文字ばかり。
肉体的なお伊勢への行程を示す表現なら、ヤジキタ二人が立ち寄った地名を映したりするんだろう。
しかしこの旅はどんなものが重要なキーワードとして現れるかわからない旅だ。
ひどくくたびれた時に飲んだお茶碗の色かも知れないし、空を見上げた時の枝の重なり具合かも知れない。
無駄なものや意味のないものはなく、出会うものすべてが旅の中で(そういう意味で)完全に機能している、と。
そんなイメージを受ける映像だった。
・・・つづく。
この記事に対するコメント
舞台、大変楽しく拝見させて頂きました。お疲れ様です。
(トラックバックも有難う御座いました。あんな拙い文章申し訳ないです…)
感覚では解っていても頭で解らなかった事、此処で文字として読ませて頂く事で少しずつ消化できてきた気がします。
こんなに心掴まれる舞台に逢ったのは久しぶりです。
今回、スタッフ最大のメリットのひとつに、台本を手に入れることができた、というのがあります。
演劇は基本的に生の声で演じるので、時に、重要なセリフが伝わりにくかったりします。「こんなこと言ってたのかよ!」そんな感動を余さず体験できました。それでも伝わるお芝居だから凄いんでしょうけど・・・。
基本的に好きが高じただけでございます。
みなさんの日記を見ていると、本当に感動しますね。
言葉は違えど同じ事を感じている感覚がすごくありますね。
ほんといい体験でした。