ゴッホを観に行きました。
乾いて明るい色彩が多いゴッホ。
黄色やクリーム色をキャンパスに吹きつけるさまに、
「生きた時代の空気感」と
「狂気のように晴れ渡る一個人の情熱」を感じました。
さて、ゴッホの変人偏屈列伝。
1:伝道師時代、常軌を逸した伝道活動が問題になり、除名処分になる。
2:人物画を描きたかったがモデル代がなく、風景画ばかりを描く。
3:娼婦(しかも妊娠中)と同棲するも、一年で破局。
4:仲間に憧れ、画家達の語らいの場としての家を買い、
家具を揃え、絵を飾り、アトリエを作るも、みんな来ず。
5:やっと迎えたゴーギャンとも芸術性の違いにより、共同生活がうまくいかず、徐々に精神に支障をきたしはじめ、やがて自分で自分の耳を切る。
6:発作に悩まされながらのピストル自殺。
宗教、仲間、愛する総てから見捨てられ、
果てには自分すら支えられなくなり、
世界の片隅に追いやられてゆく36年の人生。
でも作品にはそんな暗さ、あまり感じなかったな。
どこかユーモアがあって、この世界に溢れる「色彩の不思議さ」を覗いてみるのが好きでたまらない感じだ。
「耳切り事件」の後の静養院での絵とかも、穏やかでいいと思った。
ゴッホにとって絵はどんなときも「癒し」や「躍動」であったに違いない。
ただ、乾いてはいるが。
それは決して馴れ合わない気位の高さを象徴するかのようだった。
そう、どんな事になっても、「自分」で居続け、追求し続けたのはやっぱりすごい。
本当の自分と向き合う作業は最高に楽しい事だ。
知ってしまった以上、誤魔化すなんて難しい。
遅かれ早かれ、皆自分に気づく。きっとそういうことになっている。
最近はもうみんな気づいているし、知っているんじゃないかと思うようになってきた。
気づきながらも、何をどう選択して生きていくか、ということになるのだが。
なかでもやっかいなもののひとつに「決別」、別れがある。
一生かけてなすべきライフワークを若いうちに見つけ、追求し続けている知人は周りに多くいる。
ミュージシャン、デザイナー、服飾家、雑貨屋、作曲家・・・中にはカテゴライズできない、「自分」としか言いようのない道を進んでいく知人たち。
こういった人たちの言葉や行動に触れ合えているのはすごい体験だと思う。
みんな、自分の道を信念を持って進み、大きな充実と、そして必ず辛い別れを体験している。
別れっちゅうのは、けして誰かとのことだけではない。
自分が選択した物にも決別せねばならない事態も起こる。
百人芝居の現場は空気からして自由な自己発信の匂いだったが、
このなかの何人が今の自分を完全に表現しきれていると言い切れるだろうか?
「居続けてしまっている」人もいるだろう。
今後、どんなことが起こるか、わかった様で「case:マノ」についてはまったくわからない。
変わっていくものと変わらないもの、その中での自分の選択と、出会うすべて、別れたすべてを愛していくことしかできない。
自分にはどこまでできるか、自信がないけれど。
ゴッホのあまりにもまっすぐすぎる無様な人生に、タカオさんとふたりで大笑いしました。
リスペクトの意を込めて。