こんにちは。
「百人芝居◎真夜中の弥次さん喜多さん」で、映像スタッフとして参加させて頂いた真野です。
僕の担当は、仕込んだプロジェクターで後ろから映像を映す係でした。
冒頭の宿のシーンで、喜多さんが障子を開けると雨が横から降っていて、
「アメは・・・縦だぜ!」
喜多さんがドンッと叩くと雨が縦から降り出す・・・あれです。
今回の台本は、後ろからのプロジェクターはそこしか登場しませんでした。
よって、出番はそこだけ。
その後は客席に周り階段から全公演、お芝居を観ることができました。
こんなスタッフ、200人中異例中の異例でありましょう。
ありがとうございます。
出演者として登場した161人の方々や、そのほかのスタッフさんは完成したお芝居を観れない方がほとんど。当然です。
この立場を利用して連日稽古の様子や、天野さんの演出、日毎に芝居が改善されていく様子をレポートして参りましたが、さて・・・。
なにはともあれ百人芝居が終わって。すごいです、反響が。
ミクシイやグリー、ライブドアのブログ検索で百人芝居と検索すると、出てくる出てくる、観に来られた方々の日記が。
そのどれもが絶賛の嵐。
中でも、
ミっふぃーのブログはとても嬉しかった。
以前にも書きましたが、今回の百人芝居は、天野作品の中では相当にポップ係数が高い。
みんなと共有できるところで楽しく繋いで、ピークに芸術性と天野美学を持ってきていた、「自己」と「普遍性」の距離の取り方がすごくよかった。
はじめて天野作品を観た方もすんなり入って行けたことでしょう。
天野さんがそんなバランス感覚の人だとは驚きました。
もっと自己中心的なアーティストかと思ってた。
出演者を含めたあらゆる人種を繋ぐ最高の贈り物として書いた「百人芝居」。
とか思いながら、物販で売ってた「それいゆ」のビデオを観た。
こちらは完全に天野天街=少年王者舘の血と肉と、骨で出来てる。
表現への追求に完全に迷いがなく、徹底的にオルタナティブ。
百人芝居で天野作品に興味をもたれたら、
「二人芝居」→「それいゆ」と観ていくのがいいかも。
そうか、百人芝居はもしや今までの活動の集大成的作品なのかも。
それにしても変わらないのは、ある、ない。ある、ない。への
執拗なこだわり。
ひとつは全体で、全体はひとつ。
現実に生きていると気付きにくいことですが、天野さんがその世界に目覚めたきっかけともとれる手記が、「それいゆ」の台本のあとがきにありました。
「それいゆ」を書いた一年前、一等の友人である長谷川川久が自死した。
ショックは未だイエルことはない。
当時もココロはその動揺の中にあり、劇の中の「死」の扱い方が逆に客観性を帯びた。
情緒的なコトバを使うコトがキモチ的に全く出来なかった。
ツキナハシて考えるのではなく、ナマなココロのフルエ、振動を、別な型に変換する作業をした。
役者は非常にやりにくかったコトと思う。
あまりにもあかるすぎてまぶしすぎてヤミに一等近くなるようなコトがしたかった。
ずっと一緒だと思ってた友が、ある日突然いなくなってしまった。
それでもまだ彼は自分の中で生き続けている。
のにいない。なにがなんだかわけがわからない。
あっちの世界と、こっちの世界の隔たりのなさが日毎に強くなってゆく。
この世で生き続けていく自分と、もういない、人生をわけた友の記憶が、自分がどこまで彼で、彼がどこまで自分かわからなくなっていく感覚を強くする。夢も死も生もすべて同等に捉えてしまう感覚。
「空」という言葉を思い出した。
天野さんのすべてはひとつという感覚、あるない、いるいないという作風に繋がるおおきなきっかけになった出来事だったのではないだろうか。
さらに本を書いて深化していく事で、ますます境界線は薄れていっただろう。
まあ以上は真野の個人的な推測であり、もちろん天野さん本人に直接聞いたわけでもないので。
タカオさんに「天野シャトラー」ってサインしたって。
西田シャトナーさんのサインの隣に。
さて、この百人芝居を巡る旅もそろそろなんか、おわりっぺえ感じだな〜。
ですね。
次回は最後に一観客として観た「百人芝居 真夜中の弥次さん喜多さん」のレビューを書いておわります。
今までありがとうございました。